2011年3月11日、東日本を中心に大地震が起こりました。私はこの大震災を直接体験したわけではないのですが、震災を直接体験しなかった者として個人的な思いを書きたいと思います。私は2011年3月11日、日本にはいませんでした。その時、私は外国に旅行に行っていました。そして、外国で東日本大震災のニュースを聞きました。滞在中、人と知り合う度に日本の地震のことについて色々と聞かれて、友人が日本のことを心配してくれたことを思い出します。私は震災を直接体験しなかった者ですが、出来るだけ早くそして確実に被災地が復興することを願っています。しかし同時に私は、このような非常時に人々のイデオロギーが無化(透明化)されてしまうことの恐ろしさをも同時に感じました。いわゆる平常時には、人々のイデオロギーの存在は表面化されているように見えるのですが、非常時にはそれが見えにくくなってしまうように私は感じたのです。つまり私にとっては、イデオロギーの存在=「平常時」、イデオロギーの無化=「戦時」というように感じられるのです。イデオロギーの存在というのは、自分にとって拠って立つ場所があるということです。人間は、自分の拠って立つ場所が無くなると不安に陥ります。震災の復興は勿論大切なことですが、「復興」という言葉は同時に抽象的でもあり、ある意味イデオロギーを無化してしまう響きも持っています。人間は、物質だけあれば生きていける存在ではありません。かといって、物質が無ければ人間にとって困ることが沢山あるのも現実です。私は、あらゆる人間は各々複数の時間を持っているのではないかと思います。人間は、今日食べるものがなくて困る時があれば、明日はどこに出掛けようかと思う時もあり、昨日は何をしたのかと思い返す時があれば、地球は一万年後にはどのような姿になっているのかということを想像することも出来ます。困っている人に、単純に食べ物を与えればそれで良いということはないのです。困っている人に、慰めの声をかければそれで良いということはないのです。人間は誰しも、愛を必要としています。愛を必要としない人間などいません。そして、愛は様々な形式をとりうるのです。愛のかたちは、決して一つだけではありません。世の中には、無数の愛があるのです。ある人から見れば決して愛には見えないものが、他の人から見れば愛と感じられるのです。この日本という国で大きな困難があったからこそ、一人一人の日本人が今よりももっと多様な愛のかたちをひとつでも見つけられることを私は願っています。